
チーム打撃成績
| 試合 | 打率 | 打数 | 得点 | 安打 | 二塁打 | 三塁打 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 | 犠打 | 犠飛 | 四球 | 死球 | 三振 | 長打率 | 出塁率 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 24 | .251 | 802 | 79 | 201 | 36 | 4 | 17 | 76 | 21 | 23 | 3 | 70 | 8 | 167 | .369 | .316 |
チーム投手成績
| 試合 | 防御率 | 勝利 | 敗北 | セーブ | 完投 | 勝率 | 投球回 | 奪三振 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 24 | 3.63 | 15 | 9 | 5 | 0 | .625 | 213 | 154 |
| 球団名 | 東京ヤクルトスワローズ |
|---|---|
| 本拠地 | 明治神宮野球場(スタジアムガイド) |
| 監督名 | 小川淳司 |
| 球団公式サイト | 東京ヤクルトスワローズ オフィシャルサイト |

1978年、悲願の日本一を達成した。第7戦に主砲・大杉が足立から左翼ポール付近へ本塁打。このアーチが「ファウルだ」と阪急・上田監督は79分の猛抗議。大杉は8回にもアーチを放ち、Vを飾った。
セ・リーグが発足した1950年1月、当時の国鉄総裁が「全国鉄職員に健全なレクリエーションを」と呼びかけて結成された国鉄スワローズが元祖。
50年シーズン中に亨栄商高を中退して入団した左腕・金田正一がチームを支えた。2年目には早くも22勝、強打の巨人打線にも真っ向勝負を挑んだ。
65年4月、「サンケイスワローズ」となり、70年にはサンケイから現在のヤクルトへ経営権が譲渡され、広岡達朗監督3年目の78年、ついに球団創設以来29年目の初リーグ優勝、日本シリーズでも阪急を破って日本一に。小さな大打者・若松勉、長距離砲の大杉勝男、速球エースの松岡弘が投打の中心だった。
87年からの関根潤三監督時代に、広沢克己、池山隆寛の強打者が成長。90年に就任した野村克也監督は、ID野球を浸透させて92、93年と連覇を達成し、93、95、97年に日本一となった。99年から若松監督が指揮を執ると2001年には4年ぶりの日本一。

青木が7月4日の中日戦(秋田)でイチローに次ぐスピードの770試合での1000安打。また、シーズン2度目の200安打に到達。阪神・マートンには及ばなかったものの209安打を放った。
05年には青木宣親がシーズン200安打(202)を達成した。06年より捕手の古田敦也が球界29年ぶりのプレーイング・マネジャーに就任。この年は岩村明憲、青木、ラミレス、ラロッカ、リグスらの打線がリーグ1位の169本塁打を放ち3位。しかし翌07年、21年ぶりの最下位で古田兼任監督は退任・引退した。青木が2度目の首位打者、ラミレスはリーグ新となる204安打、グライシンガーが最多勝。それでもチームは浮上できなかった。
08年には高田繁新監督が就任。リグスら外国人選手の誤算が響き5位に終わったが、石川雅規が防御率1位(2.68)となり、42盗塁で初の盗塁王となった福地寿樹を筆頭に、チーム148盗塁とテーマに掲げていた機動力は見せつけた。09年は館山昌平が16勝で初の最多勝に輝き、石川が13勝と左右の2本柱を形成。しかし続く先発投手が不足し、リリーフ陣の疲労もたまった夏場に失速。故障者も続出した。それでもギリギリでAクラスを死守。初のクライマックスシリーズへ進出した。10年は成績不振により高田監督が5月18日に引責辞任。19日から小川淳司ヘッドコーチが監督代行として指揮を執り、チームを再生させた。最大19あった借金を返済し、最終的には貯金4(リーグ4位)にまでチームを引き上げた。この手腕が評価され、シーズン終了後に監督に昇格した。
- 球団名変遷
-
1950~1965 国鉄スワローズ 1965 サンケイスワローズ 1966~1968 サンケイアトムズ 1969 アトムズ 1970~1973 ヤクルトアトムズ 1974~2005 ヤクルトスワローズ 2006~ 東京ヤクルトスワローズ
- フランチャイズ球場変遷
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1952~1963 後楽園球場 1964~ 明治神宮野球場
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