
チーム打撃成績
| 試合 | 打率 | 打数 | 得点 | 安打 | 二塁打 | 三塁打 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 | 犠打 | 犠飛 | 四球 | 死球 | 三振 | 長打率 | 出塁率 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 24 | .277 | 834 | 104 | 231 | 44 | 3 | 32 | 103 | 16 | 19 | 9 | 67 | 11 | 169 | .452 | .336 |
チーム投手成績
| 試合 | 防御率 | 勝利 | 敗北 | セーブ | 完投 | 勝率 | 投球回 | 奪三振 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 24 | 3.10 | 12 | 9 | 7 | 2 | .571 | 220 2/3 | 174 |
| 球団名 | 読売ジャイアンツ |
|---|---|
| 本拠地 | 東京ドーム(スタジアムガイド) |
| 監督名 | 原 辰徳 |
| 球団公式サイト | Yomiuri Giants Official Web Site |

球団史上最多となるシーズン79試合登板を果たした久保裕也。苦しい台所事情を獅子奮迅の働きで支え、中継ぎながら8勝をマークした
1934年に全米選抜チームと対戦した全日本チームを母体に発足した「大日本東京野球倶楽部」が翌年、アメリカ遠征中の2月に「東京ジャイアンツ」に。
2度目の渡米のあと、36年に藤本定義監督で第1回職業野球リーグ終了後、タイガースとの優勝決定戦に勝って初優勝し、39年からの5連覇が第一次黄金期となった。38年に入団した川上哲治が39、41年に首位打者を獲得するなど台頭し、1リーグ最後の49年、三原修監督のもとで戦後初優勝を飾った。
51年からの3年連続優勝、日本シリーズでも南海に勝ち続けた時が第二次黄金期。58年に長嶋茂雄、59年に王貞治が入団してチームを活気づかせ、二人を中心にした猛打が始まった。「ON」の呼称は62年からだが、61年に川上監督となって65年から空前絶後のV9ロードが球史に残る。
75年から長嶋、81年から藤田元司、84年から王、そして89年から再び藤田と監督が代わったが、この間は優勝7回のほかすべての順位を経験する不安定な戦いが続いた。

坂本勇人はプロ入り4年目にして初のシーズンフルイニング出場を達成。トップバッターながら、31本塁打を放つなど、大きく飛躍を遂げるシーズンとなった
93年から長嶋監督が13年ぶりに復帰。2年目の94年には、見事日本一へ上り詰めた。96年に大逆転優勝を果たすと、20世紀最後の2000年には"ミレニアムV"。02年に原辰徳監督が就任すると、2年ぶりの優勝。日本シリーズでも西武に4連勝を飾った。
04年に堀内恒夫監督となったが3位、5位、原辰徳監督が復帰の06年も4位に終わった。07年は5年ぶりのリーグ優勝を成し遂げたが、クライマックス・シリーズで中日に3連敗で日本シリーズ進出はならなかったが、08年は中日に雪辱を果たし日本シリーズへ。だが、西武に3勝4敗を敗れ去った。
09年、開幕の広島戦は2敗1分けスタートだったが、8試合目で首位に立つと最後までその座を譲ることはなかった。CSも勝ち抜き、日本シリーズで日本ハムを4勝2敗で下し7年ぶりの頂点へ。日韓クラブチャンピオンシップで起亜に勝利し、アジア一にも輝いた。
リーグ4連覇、2年連続日本一を目指した10年は、6月まで首位を快走したものの、後半戦に入って先発投手陣が総崩れ。これに比例するように打線も湿りがちとなり、ナゴヤドームでは9連敗を喫するなど、東京ドーム以外で勝ち星を稼げず。リーグ3位からの巻き返しを目指したクライマックス・シリーズでも阪神を下してファイナルステージに駒を進めたものの、宿敵・中日に敗れた。
- 球団名変遷
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1936~1946 東京巨人 1947~ 読売ジャイアンツ(巨人)
- フランチャイズ球場変遷
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1952~1987 後楽園球場 1988~ 東京ドーム
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