
チーム打撃成績
| 球団 | 試合 | 打率 | 打数 | 得点 | 安打 | 二塁打 | 三塁打 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 | 犠打 | 犠飛 | 四球 | 死球 | 三振 | 長打率 | 出塁率 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 日本ハム | 24 | .292 | 830 | 128 | 242 | 52 | 6 | 15 | 122 | 24 | 24 | 8 | 70 | 9 | 160 | .423 | .350 |
チーム投手成績
| 試合 | 防御率 | 勝利 | 敗北 | セーブ | 完投 | 勝率 | 投球回 | 奪三振 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 24 | 3.33 | 12 | 11 | 3 | 3 | .522 | 211 | 154 |
| 球団名 | 北海道日本ハムファイターズ |
|---|---|
| 本拠地 | 札幌ドーム(スタジアムガイド) |
| 監督名 | 梨田 昌孝 |
| 球団公式サイト | 北海道日本ハムファイターズ オフィシャルサイト |

07年も開幕前の下馬評を覆す快進撃で球団史上初のリーグ連覇を達成。球界に日本ハム旋風を巻き起こした
戦後生まれの球団で最も早く結成されたチーム「セネタース」が元祖。
パ・リーグ加入後、球界を代表する大打者・大下弘を擁しながら下位に低迷していたが、1956年、岩本義行監督になって「駒沢の暴れん坊」と異名がつく個性派集団に生まれ変わった。62年に待望の初優勝。張 本勲、毒島章一、土橋正幸、尾崎行雄らが活躍し、日本一に立った。
その後、73年に日拓ホーム、74年には日本ハムが買収。76年から熱血漢の大沢啓二監督が就任すると、6年目の81年リーグ優勝。
85年には巨人OBの高田繁が監督になったものの3位が最高。

10年シーズンもエースとして抜群の存在感を示したダルビッシュ。2リーグ制後では3人目の4年連続防御率1点台をマークした
以後、93年には大沢監督が復帰して2位に引き上げたが、94年は最下位。95年には上田利治監督が就任し、98年には前半戦までに2位以下に大差をつけながら大逆転負け。99年に就任した大島康徳監督で2000年には3位に食い込んだが、またBクラスに戻ると、03年にトレイ・ヒルマン監督を招聘し、04年には本拠地を札幌に移転して3位、05年は5位。
そして、06年のヒルマン体制4年目。小笠原道大、SHINJO、金子誠ら歴戦の選手に加えて、ダルビッシュ有、MICHEAL、森本稀哲、田中賢介ら若い力が臆することなく存分に力を発揮。リーグ1位、プレーオフ優勝、日本シリーズ優勝、アジアシリーズ優勝という最高のシーズンを送った。
07年は日本生命セ・パ交流戦の初優勝を皮切りにシーズン1位通過。クライマックス・シリーズも制して、リーグ連覇の偉業を成し遂げた。08年はダルビッシュと稲葉を中心に投打の歯車ががっちりとかみ合い、シーズン3位でクライマックス・シリーズへ。オリックスを破って第2ステージに進んだが西武に敗れて日本シリーズ出場はならなかった。V奪回を誓ってスタートした09年は安定した投手力に加えて、12球団一のチーム打率を誇った打力も加わって2年ぶりのパ・リーグ制覇達成。巨人との日本シリーズでは苦杯を舐めたが、日本ハムの底力をまざまざと見せつけたシーズンだった。
翌10年シーズンは投打の歯車がかみ合わず、開幕ダッシュに失敗。中盤以降に巻き返しを見せたが、5年ぶりとなるBクラス転落4位に沈んだ。ポストシーズンで3位から日本一まで駆け上がったロッテとはわずか0.5ゲーム差。"1勝の重み"を痛感する悔しさが残るシーズンとなった。
- 球団名変遷
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1946 セネタース 1947 東急フライヤーズ 1948 急映フライヤーズ 1949~1953 東急フライヤーズ 1954~1972 東映フライヤーズ 1973 日拓ホーム・フライヤーズ 1974~2003 日本ハム・ファイターズ 2004~ 北海道日本ハムファイターズ
- フランチャイズ球場変遷
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1952~1953 後楽園球場 1954~1961 駒沢球場 1962~1963 神宮球場 1964~1987 後楽園球場 1988~2003 東京ドーム 2004~ 札幌ドーム
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