
チーム打撃成績
| 試合 | 打率 | 打数 | 得点 | 安打 | 二塁打 | 三塁打 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 | 犠打 | 犠飛 | 四球 | 死球 | 三振 | 長打率 | 出塁率 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 24 | .242 | 759 | 92 | 184 | 29 | 2 | 14 | 86 | 11 | 19 | 4 | 54 | 8 | 143 | .341 | .298 |
チーム投手成績
| 試合 | 防御率 | 勝利 | 敗北 | セーブ | 完投 | 勝率 | 投球回 | 奪三振 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 24 | 4.26 | 14 | 9 | 10 | 0 | .609 | 209 | 172 |
| 球団名 | 広島東洋カープ |
|---|---|
| 本拠地 | MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島(スタジアムガイド) |
| 監督名 | 野村 謙二郎 |
| 球団公式サイト | 広島東洋カープ オフィシャルサイト |

1975年の悲願の初優勝から80年代の黄金期を支えた"ミスター赤ヘル"山本浩二(左)と、"鉄人"衣笠祥雄。両者の背番号は永久欠番となり、チームの歴史を語る上で欠かすことのできない存在だ
「市民による市民のための球団」の発足は1949年11月。しかし、他球団のような経営母体がないため、たちまち財政危機に陥り、2年目には解散かとも言われた。
球団存亡の危機を救ったのが初代監督の石本秀一で、市民から小口の資金を集める後援会を組織し、球場前に樽を置いて募金活動をしピンチを逃れた。だが、他球団のような戦力補強はできず、長くBクラス生活を強いられた。孤軍奮闘したのは長谷川良平で、55年には30勝で最多勝投手になった。
57年に広島市民球場が完成。68年、根本陸夫監督で、外木場義郎と安仁屋宗八の2人の20勝投手が出て初めてAクラス入り。
75年に外国人監督ジョー・ルーツが就任し、シーズン途中で退団すると後を継いだ古葉竹識監督で待望の初優勝を達成、広島の街は歓喜に酔った。古葉監督2度目の優勝は79年、日本シリーズでも江夏豊の力投で、近鉄を破って初の日本一に。80年も近鉄を破って連覇を成し遂げた。84年には、阪急相手に75年の雪辱を果たして3度目の日本一。86年の日本シリーズでは、西武と第8戦までおよぶ死闘を展開したが、3連勝のあと4連敗。

2010年、15勝8敗、防御率2.21の成績を残し「投手8冠」に輝いた前田健太。今季は自身の背番号である「18」勝を目指すとともに、史上5人目の2年連続沢村賞を狙う
89年から登場した山本監督で91年に6度目の優勝。94年からは三村敏之監督が指揮をとったがVには届かず、99年に就任した達川豊晃監督もBクラスに低迷したため、2001年から山本監督が復帰。しかし、5年連続Bクラス、05年は最下位に転落した。
06年からはチーム31年ぶりの外国人監督、マーティー・ブラウンが指揮を執るが5位。07年は前田智徳が通算2000安打を達成したが、投手陣が崩れ5位だった。
広島市民球場最終年となった08年は、黒田博樹と四番打者の新井貴浩がチームを去って不安視されたが、最後までクライマックスシリーズ争いを演じたが4位に終わった。新球場元年となった09年は5位に終わり、ブラウン監督は退任。
10年は生え抜きの野村謙二郎が新監督に就任。しかし、大竹寛、永川勝浩などケガ人が続出し、特に救援陣は12球団ワーストの防御率5.33を記録するなど深刻な投手不足に苦しみ2年連続の5位に終わった。そんななか、初の開幕投手を務めた前田健太は孤軍奮闘。最多勝、最優秀防御率、最多奪三振、沢村賞など「投手8冠」を獲得し、一気に球界のエースへと上り詰めた。一方の野手は梵英心が初の盗塁王を獲得、さらに球団では24年ぶりとなる4人のゴールデングラブ受賞者を輩出するなど、今季に向けて明るい材料も見られた。
- 球団名変遷
-
1950~1967 広島カープ 1968~ 広島東洋カープ
- フランチャイズ球場変遷
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1952~1957 広島総合球場 1957~2008 広島市民球場 2009~ MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島
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