
チーム打撃成績
| 試合 | 打率 | 打数 | 得点 | 安打 | 二塁打 | 三塁打 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 | 犠打 | 犠飛 | 四球 | 死球 | 三振 | 長打率 | 出塁率 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 24 | .241 | 767 | 86 | 185 | 30 | 3 | 30 | 85 | 4 | 11 | 4 | 42 | 6 | 185 | .405 | .284 |
チーム投手成績
| 試合 | 防御率 | 勝利 | 敗北 | セーブ | 完投 | 勝率 | 投球回 | 奪三振 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 24 | 5.52 | 6 | 18 | 4 | 2 | .250 | 202 1/3 | 133 |
| 球団名 | 横浜ベイスターズ |
|---|---|
| 本拠地 | 横浜スタジアム(スタジアムガイド) |
| 監督名 | 尾花 髙夫 |
| 球団公式サイト | 横浜ベイスターズ オフィシャル・ウェブサイト |

大魔神・佐々木や「マシンガン打線」といったタレント豊富なチームだった98年。権藤博監督の下、横浜ベイスターズとして初の優勝を飾った
1949年11月、下関を本拠とする大洋漁業・中部兼市社長の一声で「大洋球団」が設立され、50年に発足したセ・リーグに加盟。1年目は5位で、54年から6年連続最下位。そこから一気にリーグ優勝、日本一と上り詰めたのが、三原脩監督となった60年。名バッテリー・秋山登と土井淳が大活躍を見せた。三原監督時代は67年まで8年間続いた。
その後別当薫、青田昇、宮崎剛と監督交代が続くがチームは低迷。切り札の秋山から2度目の別当、土井と監督は代わったが、エース・平松政次、四番・松原誠の時代もBクラスが多かった。
85年からの近藤貞雄監督時代は「スポーツカー・トリオ」(のち「スーパーカー・トリオ」)で売り出したが上位進出はならなかった。90年には元巨人二軍監督の須藤豊監督が就任。元気なチームになったが成績は上がらず、93年から「横浜ベイスターズ」に改称して再スタートを切った。

キャプテンに就任した村田修一。積極的な声出しや、若手へのアドバイスなどでチームを一つにまとめる。また今季は1000本安打、250本塁打の記録達成も期待されており、けん引役としての活躍が望まれる
大矢明彦監督が指揮した97年には2位へ躍進。その実力は権藤博監督の98年に花開き、38年ぶりの日本一へ上り詰めた。ところが、99年は3位となり、守護神・佐々木主浩が抜けた2000年、名将・森祇晶を新監督に迎えた01年もAクラス確保がやっと。主力が次々と抜けた02年はとうとう最下位に沈んだ。
05年には牛島和彦監督が就任し4年ぶりのAクラス入りも、06年は最下位。大矢監督第2次政権の07年は、工藤公康ら新戦力の加入や村田の本塁打王獲得などで、8年ぶりに70勝以上を挙げ4位となったが、08年は最下位に沈み、内川聖一の首位打者獲得と村田の連続本塁打王が、せめてもの救いだった。
09年にその2人は第2回WBCに出場し連覇に貢献したが、村田は大会中の負傷により開幕に出遅れ、投手陣の崩壊や助っ人の不振なども重なりチームは開幕6連敗。交流戦前に大矢監督は休養に入り田代富雄二軍監督が指揮を執ったが、最下位脱出はならなかった。
尾花髙夫新監督の下、「アナライジングベースボール」をテーマに掲げ挑んだ10年だったが、交流戦後に先発ローテが崩壊。清水と新戦力・加賀が奮闘し、助っ人・ハーパーが本塁打を量産するも、3年連続90敗で最下位という不名誉な結果に終わった。
- 球団名変遷
-
1950~1952 大洋ホエールズ 1953~1954 大洋松竹(洋松)ロビンス 1955~1977 大洋ホエールズ 1978~1992 横浜大洋ホエールズ 1993~ 横浜ベイスターズ
- フランチャイズ球場変遷
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1952 下関球場 1953~1954 大阪球場 1955~1977 川崎球場 1978~ 横浜スタジアム
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